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惟喬親王 [枚方]

神武天皇より始まって万世一系といわれた天皇家には数多の皇子(嫡出、庶出と問わず)が出生したであろうが、私の目に親しいのは唯一惟喬親王である。文徳天皇の第一皇子だが、生母の出自が紀名虎と低く、一方第四皇子の惟任親王は生母が実力者藤原良房の娘の明子であったことから、惟任が惟喬をおさえて皇位を継いだ(清和天皇)。惟喬親王(前賢故実より).jpg

惟喬親王(844~897)を知ったのは、白洲正子さんの『かくれ里』を読んだ時であった。従って、失意の果てに近江周辺の木地師の里との縁を深めた人だとのみ思っていた。ところが、灯台下暗しで、ここ枚方との縁もあった人であることを知ったのは、わが家から津田駅への径辺にある薄汚い水溜まりに木の立て札があるのを読んで、この小さな水溜まりがかって影見池と呼ばれていたことを知った。ここ枚方から交野へかけては、平安時代交野原と呼ばれて、平安貴族の狩りの場だったという。その原へ失意の惟喬親王を狩りに誘ったのが、親友の在原業平であった。その狩りの際、親王は愛鷹を見失ったが、この池に映ったその影を見て鷹を発見したという故事から名付けられたという。嘗ては湧水の水清い池であったろうが、今は偲ぶ由もない濁水の溜まりを化している。その案内板には、“惟喬親王(844~897)は文徳天皇の第一皇子であったが、藤原良房の孫で第四皇子であった惟任親王が皇太子に立てられた。のちの清和天皇である。失意の惟喬親王は、たびたび交野の別荘渚院を訪れ、在原業平らと歌を詠み遊猟して心を慰めた。    ここ影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残している。   田を養ってきたこの池も、宅地化の波にのまれその役目を終えたが、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えている”、と記されている。影見池案内札.jpg影見池.jpg

枚方にはいま1ヵ所親王所縁の場所がある。こちらは影見池と違って、枚方名所11景に選ばれている。ここも勿論宅地化の波に呑まれて、かっての面影を全く残さず、僅かに院址に立てられた石碑の嘗てのよすがを知るのみである。ここは親王が交野原に遊猟する際の別墅として使われ、在原業平たちと共に歌を詠んだということが、『伊勢物語』にも出ている。古今集にある業平の歌“世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし”はここ渚の院で桜を愛でながら詠ったものと院址に残る歌碑に記されている。(この段は、大阪再発見というウエブより引用)。渚院の碑.jpg在原業平の歌碑.jpg
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