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住民税申告 [枚方]

今年も市役所から住民税申告用書類が送られてきた。ウエブサイトで申告用のサイトを呼び出して、数字を入れてゆくだけの作業で、計算はすべて向こう任せで安直である。早々と済ませたが、受付は15日からなので、封筒に収めて机上に置いてある。

源氏の瀧 [枚方]

 せっかくカメラが新しくなったので、散歩がてら近辺を歩いて来たが、情けないほど体力の衰えを感じさせられた。

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交野山頂の観音岩(正面に大きな梵字が刻まれている)

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源氏の瀧

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瀧傍の石佛三尊

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瀧下にある苔むした巨岩

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瀧へ至る道端にある「夜泣石」

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由来を記した立て札。ちなみに「夜泣石」伝説はこの周辺のみならず、小夜の中山始め日本のあちこちにあるようだ。

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里の桜はとっくに葉桜になってしまったが、山桜はまだ花をつけている。

明日は公済病院の定期検査。先日の大腸ポリープ切除の病理検査の結果を聞く。

明後日は文楽観賞元気を出そうぜ。


旧警察学校跡地 [枚方]

 近くにあった警察学校が泉南の方へ移転して、更地にされた広大な跡地は学校法人創価学園が買い取ったようで、跡地の整備がされていたが、上中下三段の跡地の中で一番広い下段に、ラグビーのゴールポストが立てられている。芝張りのラグビー場になるのだろうか。そうなると、楽しみだ。隣の交野市に創価学園の中学校・高等学校があるが、ラグビーではあまり創価学園の名前を聞いたことはないが、これから強化してゆくのだろうか。いずれにせよ、立派なラグビー場が出来れば、枚方市には常翔啓光学園やら東海大付属仰星高校というラグビーの強豪校があり、ここを利用したゲームも楽しめるかも知れない。

スパバレイ枚方南 [枚方]

 わが家から歩いて10分足らずのところに、スパバレイ枚方南がある。

スパバレイ枚方南.jpgスパバレイ枚方南

【続きを読んでください】


歴史シンポジューム 交野ヶ原と平安貴族 [枚方]

枚方市教育委員会・枚方市文化財研究調査会共催の歴史シンポジュームの案内があって申し込んでおいたが、抽選で選ばれて参加証が送られてきた。
枚方には渚の院という惟喬親王が交野での遊猟の際に用いたという別墅の址があり、惟任親王(後の清和天皇)との皇位争いに敗れた失意の惟喬親王が在原業平らと交野ヶ原で狩りを楽しんだといわれている。
このあたりのお話が聴けるものと期待している。

大池 [枚方]

家内を体操の集いに送ってゆく途中、墓地の上の大池が干されていた。この池は昨年も干して網を入れて、大量の鮒(大きくて丸々太った)を捕獲していたのを見たのに、今年も鮒はいるのかなぁ?と疑問に思って、帰宅してすぐにカメラ持参で見に行ったが、既に作業が終わっていた。昨年総取りして稚魚を放ったとしても、一年であそこまでおおきくなるのかなぁーという疑問が残った。


交野山観音岩 [枚方]

巨岩に刻まれた梵字.jpg

昨日のブログで書いた観音岩の梵字の写真がこれです。

源氏の滝の近くに、交野山三宝荒神宮遙拝所という碑が建立されており、傍に写真の立て札が立っていて、それには次のように記されている。

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“『寺社縁起』という古い本の中に修験者の宿(修行の場)が次のように書かれている。
北の峰の宿(修行の場)として、
     石船(岩船神社)、 獅子石屋(獅子窟寺)
     金剛寺(傍示の北に在る金剛寺という地名と龍王山を含めて)
     甲の尾(交野山開元寺)
の四箇所の宿(修行の場)を修験者は峯道を往復しながら艱難辛苦の修行を積み満願をはたし、悟りの境地に入れた修験者は甲の尾(交野山開元寺)から元寺滝(源氏の滝)に下り不動明王の梵字の前で身を清め、鏡池の北の「三宝荒神諸願成就」の碑の前で交野山頂に在る三宝荒神宮に向い修行にて諸々の願い事が成就した事を感謝を込めて遙拝した聖なる場所である。
その後、近代になり交野山頂の三宝荒神宮まで参詣に行くことが困難な方々の為の遙拝所として現在に至って居ります。“

ここに挙げられている石船は現在の磐船神社でそのご神体は巨大な磐座で、R168(枚方から大和高田へと通じる磐船街道)沿いにある。獅子窟寺は交野山に近い山中に現存する真言宗の寺である。傍示というのは交野市にあるが、金剛寺という地名は明らかでない。開元寺は現存しない。

三宝荒神は観音岩へ登る険しい道すがら鳥居が連なっているのがそれであろう(写真)と思われるが、社殿はなかったと記憶する。

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観音岩よりの展望.jpg

観音岩とそこからの展望である。

惟喬親王 [枚方]

神武天皇より始まって万世一系といわれた天皇家には数多の皇子(嫡出、庶出と問わず)が出生したであろうが、私の目に親しいのは唯一惟喬親王である。文徳天皇の第一皇子だが、生母の出自が紀名虎と低く、一方第四皇子の惟任親王は生母が実力者藤原良房の娘の明子であったことから、惟任が惟喬をおさえて皇位を継いだ(清和天皇)。惟喬親王(前賢故実より).jpg

惟喬親王(844~897)を知ったのは、白洲正子さんの『かくれ里』を読んだ時であった。従って、失意の果てに近江周辺の木地師の里との縁を深めた人だとのみ思っていた。ところが、灯台下暗しで、ここ枚方との縁もあった人であることを知ったのは、わが家から津田駅への径辺にある薄汚い水溜まりに木の立て札があるのを読んで、この小さな水溜まりがかって影見池と呼ばれていたことを知った。ここ枚方から交野へかけては、平安時代交野原と呼ばれて、平安貴族の狩りの場だったという。その原へ失意の惟喬親王を狩りに誘ったのが、親友の在原業平であった。その狩りの際、親王は愛鷹を見失ったが、この池に映ったその影を見て鷹を発見したという故事から名付けられたという。嘗ては湧水の水清い池であったろうが、今は偲ぶ由もない濁水の溜まりを化している。その案内板には、“惟喬親王(844~897)は文徳天皇の第一皇子であったが、藤原良房の孫で第四皇子であった惟任親王が皇太子に立てられた。のちの清和天皇である。失意の惟喬親王は、たびたび交野の別荘渚院を訪れ、在原業平らと歌を詠み遊猟して心を慰めた。    ここ影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残している。   田を養ってきたこの池も、宅地化の波にのまれその役目を終えたが、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えている”、と記されている。影見池案内札.jpg影見池.jpg

枚方にはいま1ヵ所親王所縁の場所がある。こちらは影見池と違って、枚方名所11景に選ばれている。ここも勿論宅地化の波に呑まれて、かっての面影を全く残さず、僅かに院址に立てられた石碑の嘗てのよすがを知るのみである。ここは親王が交野原に遊猟する際の別墅として使われ、在原業平たちと共に歌を詠んだということが、『伊勢物語』にも出ている。古今集にある業平の歌“世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし”はここ渚の院で桜を愛でながら詠ったものと院址に残る歌碑に記されている。(この段は、大阪再発見というウエブより引用)。渚院の碑.jpg在原業平の歌碑.jpg

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