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第十七章 悟りを開いたのは誰か? [彼岸]

 

   三世の諸佛陀は

衆生を彼岸へと導く洞察を

為しながら、いずれも

真正かつ全き悟りを開く。

 

佛陀の説くところによれば、人はだれもが悟りの種子、佛性、を持つとされています。その悟りの種子は人間のみならず、動物、植物、そして鉱物にもあるとされます。人は非人間的要素からのみ成っており、従って非人間的要素も又悟りを得る力を持っているのです。目覚め(悟り)が完全にその姿を見せるには正当な条件を必要とするのみです。佛性は抽象概念ではありません。それは正念に在って、専心し、理解し、そして慈しみある存在たる能力です;そして、自分自身に立ち戻り、正念を持し、専心の度合いを深めるならば、誰もが一人一人の身の内に在る悟りの種子に触れてそれを育て上げるのです。

私が沙弥であった頃、佛陀になることは大変困難で、何世代もの時間を要すると信じていました。悟りは時間と関係するものではありません。悟りは瞬時に成るものですから、日月の単位で悟りを論ずることは出来ません。正念の呼吸、正念の経行を実践することで、私たちは自分に代わって佛陀に呼吸をさせ、佛陀を歩ませることを学ぶのです。このように実践するなら、あなたは佛陀になることを学び、そして佛陀があなたになることを学ぶのです。それは決して難しいことではありません。さしあたっては、あなたはパートタイムの佛陀ですが、だんだんと佛陀になりきるのです。時には、後戻りして、またパートタイム佛陀になるかも知れませんが、弛まず実践することで、また佛陀そのものになります。佛性は私たちの手の届くところにあります。何処でも、いつでも、思いのまま佛陀になれます。それは本当に素晴らしいことです。私たちは人間ですから、佛陀は常に傍にいます。


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