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佐用郡誌 [追憶]

 ある日ウエブでOO郡誌が00円とあるのを見て、佐用郡誌はいかほどで入手出来るか、と検索したら10万円以上の値がついているので、吃驚仰天したことがある。

 子供の頃実家にあった『佐用郡誌』によく目を通していた。実家は昔の地名で言えば、兵庫県佐用郡幕山村大垣内93にある。その後近隣の二ケ村と合併して上月町となり、さらに佐用郡全体が大合併して佐用町となって現在に至っている。佐用郡は兵庫県の最西部にあって、岡山県と接している。「佐用は兵庫県の北海道や」、と北海道の人が聞いたら気を悪くするだろうが、兵庫県の僻地とされていた感がある。後年大学(それも兵庫県神戸市所在)に入ってから、「佐用ってどこにあるんや?」って訊かれてがっくりした記憶がある。
 

 さて、『佐用郡誌』だが、とっくの昔に実家では散逸してしまっていたと思っていたが、昨日母を実家に見舞った時、ふと言及したところ兄が、「うちにあるで」と言う。早速借りて帰ったきた。

 いまウエブで日本の古本屋で検索したら、安いのでは8000円、高くて2万円程度である。他の郡誌もそのあたりが相場だから、10万円以上は記憶違いかも知れない。

 
 佐用ということで、一番記憶に深いのは後醍醐天皇が隠岐の島に流罪となられた時、我が家の前の道を通って、播磨と美作の国境、杉坂峠を越して美作の院庄を経て隠岐へ向かわれた史実である。その時、山陽道の船坂峠で天皇を幕吏の手から奪わんと、待機していた児島高徳が杉坂峠へと向かわれたと知って杉坂峠へやってきたが、既に通過された後で、切歯扼腕して桜の幹に刻んだのが、「天、勾践を空しゅうする勿れ、時に范蠡なきにしもあらず」の詩文であった、ときく。

 子供の頃、目を通して記憶に残っているのは方言が記載されていたことだったが、今改めて目を通してみると、さほどの数の方言が記されているわけでもないが、「どがい=どのよう」、「どゑらい=大層」、「くちはめ=蝮」、「けうとい=怖い」、「こうとげに=大袈裟に」、「らっちもない=乱暴な」、などなど子供の頃実際に自分も使っていただけに懐かしい。「けうとい」は京都あたりでも遣われていた言葉だとなにかで読んだ記憶があるので、古語辞典を引くと「けうとし=気疎し」には、①馴染めない、②恐ろしい、③人けがない、と出ているから、全くの方言ではないようだ。

 それと改めて読んでみて、実家のある大垣内部落を含む幕山村の一部が浅野内匠頭の所領であった時期がある、と知った。浅野家と言えば播州赤穂だが、赤穂は佐用の南部に位置している。

 また旧平福村はあの宮本武蔵の母の出生地である。田住家がその生家だと記憶するが、佐用高校時代の英語の教師が田住家の人だった。

 実家のある大垣内聚落では今は知らぬが、自分が子供の頃は各戸が月番を務めて、お大師講が行じられていた。さぞかし真言宗一色かと思っていたが、郡誌でみると浄土真宗のお寺も郡内には多くあるようだ。我が家の菩提寺、正覚寺は真言宗東寺派と記してある。高野山だとばかり思っていたが・・・・・。

 じっくりと目を通して懐旧に耽ってみよう


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