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2014-11-06 [読書]

 山本一力さんの新作『べんけい飛脚』を購入した際、中に入っていた新潮社の新刊案内にこの本が紹介されていた。題名からして人の気を惹く体のもので、いかにも梅原流だと少少警戒気味だったが、親鸞聖人の謎とあっては是非呼んでみたいと思って、アマゾンから取り寄せた。
 著者のいう「謎」とは、(1)親鸞出家の謎;(2)法然門下に入った「謎」;(3)結婚の「謎」;(4)悪の自覚の謎、である。そして、謎を解明する作業の中では、佐々木正著『親鸞始記』で取り上げた『親鸞聖人正明伝』に大きく依拠している。また結婚の謎において、本願寺宗学では無視している九条兼実の息女玉日姫については、西山深草著『親鸞は源頼朝の甥』で展開されている研究に大いに依拠している。
 読み終えて、さて著者が言うように謎は解明されたかというと、そういう読後感はない。著者がこれで出家の謎は解かれたと確信する、と言っているが、それはあくまでも彼の主観であって、読者の私をも確信させてはくれないのだ。この著者の書いたものは結構読んではいるが、だいたい読後感ははぐらかされたという思いで、納得した記憶がない。
 この本でも紹介されている佐々木正さんの著作は、『親鸞始記』をはじめ『親鸞・封印された三つの真実』、『親鸞再考』、さらに『法然と親鸞』と読んでそれぞれ感銘を受けた。西山深草さんの著作『親鸞は源頼朝の甥』は初めて目にしたので、早速アマゾンから取り寄せて読んでいるが、これは親鸞聖人の母親及び初婚の玉日姫について、多くの古文献を渉猟して事実を確かめようというもので、なかなか手強い読み物である。

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唯識論講義(3) [読書]

 (2)まではなんとか読み進んだが、(3)に至ってギブアップとなった。「唯識論講義」とあるからは、唯識についての講義と受け取っていたが、全くそうではなく唯識に関連づけての真宗学講義の趣が強くて興を無くした。

 代わって、市の図書館から横山紘一著『唯識とは何か』(副題:「法相二巻抄」を読む)を借りだした。『法相二巻抄』は千葉の我孫子市にいた頃、五反田にある薬師寺の東京別院で松久保秀胤管長(当時)の月に一度の講話を聴いていた。 改めて唯識について学んでみたい。

『フリードリッヒ二世の生涯』 [読書]

 図書館から借りだしていた塩野七生さんの表題の著作(上下二巻)を読み終えた。塩野さんの著作は最初に読んだ『チェーザレ・ボルジャあるいは優雅なる冷酷』を初めとして多く読んだ気分でいたが、いま著作一覧をみると読んでいないほうが多い。『ローマ人の物語』も完読はしていない。一番最近読んだのが『十字軍物語』(全四巻)だった。

 フリードリッヒ二世は神聖ローマ帝国の第15代の皇帝である。神聖ローマ帝国の皇帝は世襲ではなく、選帝侯と呼ばれるドイツの有力封建諸侯によって選ばれるのだが、フリードリッヒ二世の祖父、フリードリッヒ一世(赤髭の異称で呼ばれた)、及び父親のハインリッヒも皇帝であった。塩野さんはこの本のなかで、シャルルマーニュ大帝を神聖ローマ帝国の初祖と書いていたが、ウイキペディアで調べると初祖は、ザクセン家のオットー一世となっている。

 この書は、フリードリッヒ一世とローマ法王との葛藤が主題で展開しているが、まあ中世のローマ法王の愚物ぶりにはうんざりさせられる。異端裁判はローマ法王庁の拭い去る事の出来ない歴史上の大汚点であろう。


『唯識論講義』を読む(2) [読書]

 10時国会図書館関西館に入館。『唯識論講義』を借りだし、「唯識論(1)」の後半を読む。安田理深師の唯識についての講義は、これまで多く読んできた唯識概論に類するものと違って、阿頼耶識がどうの五位百法がどうのといったことの解釈とは全く異なるものだ。唯識を語りながら、浄土の教義を語っているという印象が強い。これは、唯識の大成者である世親はまた浄土教の根本聖典『浄土論』(正式には『無量寿経優婆提舎願生偈』)を著しており、唯識と浄土教義とは通底するものがあるのだろうと思う。来週は「唯識論(2)」に入るが、120頁余一度で読み切れるか、翌々週へ持ち越すか、わが根気次第。


国会図書館にて『唯識論講義』を読む [読書]

 京都府精華町にある国会図書館の関西館に、安田理深師の『唯識論講義』が入ったのを一年前くらいから知っていたが、なかなか閲覧準備ができずにそのままになっていた。閲覧が出消えるのを確かめて、今日出掛けた。関西館はわが家から20㌔ばかり車で40分ぐらいで行ける。

 安田理深先生には、『唯識三十誦聴記』というのが京都の文栄堂書店から大部の5分冊(2200余頁)があり、60台に一度参禅していた千葉県柏市の禅寺の堂頭和尚から借りて一夏で読んだこともあり、その後自分で購入して読んでいるが、まあ難解な内容である。今回読む『唯識論講義』は上下巻合わせて750頁弱、2冊で12,600円。年金生活者にはちょっと手が出せないので、図書館で時間を掛けて読むしかない。

 10時過ぎに入館して、1時に退館した。実質2時間ばかり読んだが、これが限度のようで、来年から出来れば週一のペースで読み進めようと思っている。

 どちらの本も浄土真宗の篤信者を対象としたもので、われわれ門外漢には容易に理解できる内容ではないが、まずは読み通すことを心掛けるしかないかと覚悟している。 


読書 [読書]

 先日のブログで取り上げた中村元著『インド人の思惟方法』だが、浅学非才の身には少々難し過ぎて、なかなか一気に読了とはゆかない。10余年ほど前に、参禅していた柏市の禅寺の方丈さんから安田理深先生の『唯識三十誦聴記』(京都の文栄堂刊の500頁を超す大部の本5冊)を一夏で読了(よく理解できたかどうかは別として)したあの熱気と根気は今は失せてしまったなぁ。[わーい(嬉しい顔)]
 
 あの頃は唯識に熱中していて、読むものは唯識に関するものばかり、その上興福寺の仏法講座で唯識の講話を聴き、薬師寺の唯識寮で松久保管長の唯識講話を聴いていた。
 
 C型肝炎治療のために、インターフェロン療法を1年半に亘って受けて、その間全く人間らしい生活ではなかったが、すっかりそれ以前の生活を失ってしまったようだ。

時代小説 [読書]

 時代小説は面白い。そのなか歴史物にはあまり食指は動かないが、市井物、特に江戸なら深川、本所を舞台にするものが面白い。京都も澤田ふじ子さんのものはよく読む。
 
 先日図書館から借りだした『代表作時代小説』(平成二十五年度版)には17人の作家の作品が収録されている。その内読んだことのある作家は、北原亞以子(深川澪通り木戸番小屋)、藤原緋沙子(藍染袴お匙帖、隅田川御用帖、他)、諸田玲子(あくじゃれ瓢六、お鳥見女房、他)だけであとの14人は読んだことがない作家である。
 
 筆頭に収録されている西條奈加さんの『梅枝(ウメガエ)』を読んだが、爽やかな読後感を残してくれた作品だった。あとの作品はまた、『インド人の思惟方法』を読みあぐねた時に拾い読みしよう。
 
 ところで、日本文芸家協会編で毎年出されるこの「代表作時代小説」はその年に雑誌に発表された作品を選出対象にしているのだろうから、いま書店の書棚を賑わしているいわゆる「文庫書き下ろし」なる時代小説は一切含まれていない。もっとも佐伯泰英を筆頭として職人を自称するこれら文庫書き下ろし作家にもこの選出対象への期待などあるまい。毎月1冊ペースで書き下ろしての部数拡大が書くためのモーメンタムなのだろうから。まあ彼等の作品も時間つぶしにはもってこいなのだが・・・・・。
 
 あと好きなのは宇江佐真理『髪結い伊佐次』、平岩弓枝『御宿かわせみ』(現在は『新・御宿かわせみ』で、文藝春秋、小説新潮に掲載されると、図書館から借りだして一太郎でファイルにして収録している。キーボードを叩いて指の運動(ボケ防止?)。諸田玲子の『あくじゃれ瓢六』もこれに加わった。 

 

『快楽としての読書』 (日本編) [読書]

 丸谷才一の著作で日本編と海外編がある。日本編では123冊の著作が取り上げられているが、同一作者で複数の著作が取り上げられているので、著作者数はそれより少ない。その中で関心をそそられたものをいま複数読んでいる。
 
 中村元著『東洋人の思惟方法』は4冊から成っている。「インド人の思惟方法」、「シナ人の思惟方法」、「日本人の思惟方法」、そして最後に「チベット人・韓国人の思惟方法」である。初版時には韓国人は含まれていなかったが、再版時に加えられた。丸谷はインドから読み始めたのは失敗で、シナから始めることを勧めると書いているが、その理由については述べていない。ただ、私はインド人は好きだが、シナ人は嫌いなので、インドから読んでいる。市の図書館には置いていないので、アマゾンから取り寄せた。
 
 インド人の思惟傾向として、普遍を重視するとして、インド人は抽象名詞を好んで用いる例として、英語表現と対比させている。英語では、He grows old (彼が老いる)と表現するのに対して、インド人(サンスクリット語)では「彼は老性(老いた状態)に赴く」というふうに表現すると言う。またインド人は否定的表現を愛好するという一段で取り上げているのが、私も毎日読誦している『般若心経』のよく知られる一節「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法無限界 乃至 無意識界 無無明 亦無無明盡 乃至 無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 心無罣礙故
無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃」と不と無を冠した否定のオンパレード状態を取り上げている。同じくインドアーリヤン系の英語でもin とか unを冠して否定語を作るが(inactive, unattractive)が使われる頻度はそう多くはないように思える。サンスクリット語ではa を冠すと簡単に否定語が作れるようだ。
 
 こういった方面の素養に乏しい身にはなかなか理解が難しい内容の本だが、まったくちんぷんかんぷんというわけでもないので、最後まで読み通して、次に「日本人の思惟方法」に進もうかと考えている。
 
 『快楽としての読書』から興味を抱いて図書館から、大岡信著『私の万葉集』(3冊)、角田文衛著『待賢門院璋子の生涯』、永井義男著『剣術修行の旅日記』を借りだした。その際書棚に置いてあった山川静夫著『歌舞伎は恋』、日本文芸家協会編『代表作時代小説(平成25年度)』も借りだしてきて、『インド人の思惟方法』を読みあぐねると拾い読みしている。だいたい小生の読書はこういう横着な読み方である。

山本一力著『五二屋傳蔵』 [読書]

 この新作の新聞広告を見てすぐに、図書館に予約を申し込んだがすでに多くの予約が入っていて、1年先にならないと手にできそうにないと思って、アマゾンから購入して読んだ。この人の作はすでに多く読んでいるが、舞台は決まって江戸の深川である。高知出身の著者がなぜ深川に拘りを持つのか、以前読んだような気もするが、忘れてしまった。

 さて、五二屋というのは質屋の異名である。五+二=七(質)となるところからきている。
図書館からかり出す本はほとんどが、江戸を舞台とする時代小説であるが、そのまた大半はいわゆる文庫書き下ろしというジャンルのものが多い。まあ時間つぶしにはもってこいという軽さが売りで、読んだあとから忘れていって二度借りすることもママある。

 そういったのに比べると、この人の作品は骨組みがしっかりしているし、文体も嫌味がなくじっくりと読める。オール読み物に連載中の『損料屋喜八始末控え』というのも愛読しており、一太郎にコピーしている。同様に、宇江佐真理さんの『髪結い伊佐次捕物余話』もコピーしている。パソコンのキーボードを叩くのは指先の運動にもってこいである。


『法然と親鸞』 [読書]

 佐々木正著『法然と親鸞』(青土社刊)を読み終えた。この著者に最初に関心を覚えた端緒は、それまで親鸞伝記としては、本願寺三世覚如撰述の『本願寺聖人伝絵』が決定版とされてきたのに対して、覚如の子、存覚作と伝承される『親鸞聖人正明伝』を親鸞の正しい伝記として紹介した『親鸞始記』(隠された真実を読み解く)(筑摩書房刊)を読んだことに始まる。以後、『親鸞・封印された三つの真実』(洋泉社刊)、『親鸞再考』(法蔵館刊)と読ませてもらった。

 今回の著述でも従来の立場に依拠して論が進められており、実証主義の立場に立つ論者からは否定されてきた親鸞と九条兼実の息女玉日姫との結婚も、師法然上人の慫慂によるものとして肯定されている。

 今一度前述の三作を読み直すとともに、佐々木正氏とは全く違う世界に身をおいた曽我量深師の『法然と親鸞』も再読してみたい。


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